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中医学?汉方医学?东洋医学?
新闻来源:    点击数:1719    更新时间:2019-06-12 16:40:45    收藏此页

首先,在东洋医学中所谓的“东洋”指的是全亚洲,是为了和欧洲区别开来而使用的词语。所以,“东洋医学”是泛指全亚洲的传统医学。而对亚洲地区的传统医学产生最大影响的是中国中医学。原本中医学被称为“中国传统医学”,是被认为与欧洲孕育的西洋医学形成对比而产生的词语。在大航海时代,西洋文化如巨大的浪潮一般涌入东洋。西洋虽然认为当时的东洋并没有太高度的文明,并把全亚洲一概而论的称为东洋,但西洋所看到的东亚地区最前端存在着一个拥有不同寻常文化,叫做中国的国家。中国文化对周边国家产生了巨大的影响,甚至影响到了他国的国家治理政策。在国家治理之际,不可避免的也渗透到了医疗制度和医疗本身。



【本草纲目/本草綱目】


《本草纲目》是中国历史上本草学集大成的著作。明李时珍著,仅在刊行后的几年内,初版立即传入日本,作为本草学的基础书目给日本的医学带来了极大的影响。



【陳皮/陳皮】


《本草纲目》记载,陈皮有三大类作用,一导胸中寒邪;二破滞气;三益脾胃。



【黄帝内经/黄帝内経】


中国现存最早的医学典籍。日语中经常使用的“未病”这一词语,就是起源于《黄帝内经》。



【神农本草经/神農本草経】


中国现存最早的药物学(本草学)典籍,对各种药物的性能功效做了系统的记述,对之后中国医药学的发展起到了基石的作用。


那么“汉方医学”是什么呢?在日本,把日本的传统医学称为汉方医学。严格来说,把处方药物的传统医疗称为“汉方医学”,把用针和灸的治疗叫做“针灸医学”。实际上这些词语的历史非常短,大概从江户末期到明治时代才开始使用。“汉方医学”这个词语是因为当时西方医学主要是从荷兰传入的,被称“兰方”,为了和“兰方”相对比,便有了“汉方”。不过,在什么地方、如何变成“汉方”的,却有多种见解,其真相尚未阐明。但是,当中的“汉”指的是中国,而且是特指汉朝时代的中国。这是因为日本的东洋医学是以汉朝时代编著的文献《伤寒论》和《黄帝内经》等为基础建立起的医学,同时也是为了表达对其的敬意。特别是《伤寒论》,在日本被称为经典中的经典。



“医圣”张仲景将中国自古相传的医学知识和自身的经验结合起来,撰写了《伤寒杂病论》(该书后来又被分成《伤寒论》和《金匮要略》两本书)。其中《伤寒论》在日本被称为是经典中的经典。上图为位于北京中医药大学的张仲景雕像。



【伤寒论/傷寒論】


东汉张仲景所著汉医经典著作,是一部阐述外感病治疗规律的专著。



【甘草/甘草】


甘草作为上品草药收录于《神农本草经》中,具有缓和止痛,调和药性的功能。在日本销售的中药里,有7成都含有甘草成分。


中医学的传播


日本和中国的交流历史从现存文献中可远溯到中国后汉末期的三国时代,实际上始于1800多年前。但在当时,和对周边国家影响力甚大的中国相比,日本作为国家的机能还不够完善,所以真正意义上的交流应该说是在又过了400多年之后才开始的。即便在那时,也只是日本单向向中国学习,主要是以学习国家制度为主,当然也包括科学和技术,这就是后人所称的遣隋使、遣唐使。隋唐时期的中国对日本国家的建设产生了较大的影响,许多仿唐代的日本古建筑完好无损的保存至今,以至现在来过日本的中国人会说“如果想看唐代的中国可以去日本”。日本在各方面虽然深受唐代文化影响,但通过与自身的融合,成功地塑造出自己独特的文化。正因为有了这些文化融合的经验,所以在江户时代后期开始引进西洋文化的过程当中,日本能够迅速接受西洋文化,取得飞跃性的成长进入近代化。




北宋针灸铜人(明英宗正统八年重新铸造),现存于北京的中国国家博物馆。


再回到医学话题。随着遣唐使等的交流,医学作为国家必需的技术知识被积极的引入日本。当时中日医学水平差距很大,和各种各样的药物一起中国的医学书籍也大量进到日本。从这时起,日本的医疗制度逐渐完善,开始培养越来越多的医师,日本的医学开始生根。


什么是日本独自的“汉方医学”?


传入日本的中医学,鉴于当时日本的实际情况,在药物的采购和栽培、医生的培养、制度的制定等医疗领域方面面临的问题堆积如山。但是,如果短时间内拿不出成果的话,就得不到国家在经济上的援助,因此,日本医学界产生了片面追求速效性的倾向。这和现在西洋医学通用的对症疗法相似,即“头痛医头,胃痛医胃”。因为马上就能解除患者的痛苦,所以这种疗法在当时取得了很显著的成果。但是,中医学是探究为什么会头痛的学问,是被称为“辨证论治”的诊疗方法,其精髓就在于针对患者状况进行不同治疗的方法论。这里所谓的状况是指以患者目前的症状为基础,还包括体质、心理状态和生活环境等。


也就是说,头痛时有多种原因,可能是因为感冒、也可能是高血压或是头部长出什么异物。在针对如上的头痛症状治疗时,中医学并不是都用相同的处方药或针灸相同的穴位,而西洋医学则是使用相同的头痛药来缓和症状。但是用止痛药所止的疼痛就不会再发作了吗?如果不改变体质、杜绝根本原因,疼痛还会再复发。能够做到根治的就是中医学。


与过于专注细微部分的西洋医学所不同。东洋医学更加注重“与自然共生存”的价值观。所以,培养一位东洋医生,就必须接受东洋医学所要求的科学知识,而将这些知识变为自己的常识,则需要相当长的时间。另外,医学总是日新月异不断的在进步,再加上从中国源源不断传入的最新的医学知识也没有充分的时间来加以研究和吸收,导致在日本编撰医学书籍的时候,只能单纯的引用中国的文献。但反过来从文化保存的角度来看,很多当时中国的传统医学文献反而被完整的保存了下来,并对后来中国散佚的医书的复原工作起到了重要作用。



【党参/党参】


中草药的党参是桔梗科藤本植物党参的根,有补中益气、生津等功能。是中医自古使用的草药。


日本迎来了江户时代,没有大的战争社会也和平安定,而且因为锁国医学方面也没有大的变动。因此,日本医学也迎来了一个重新认识自我的时机,开始尝试从“对症疗法”的医学向中医学原本的“辨证论治”的转换。但是无时无地不存在的政治派系斗争,让“辩证论治”难以成为当时政府认同的主流医学。随着日本进入明治时代,社会的欧美化导致西洋医学成为日本的主流,而汉方医学却后继无人。昭和末期,以“汉方医学是治病救人的医学”为常识的那一时代的人也大都去世,真正日本传统医学的传承断裂了。虽然在针灸方面略有继承,但是说传承完全断裂也不是妄言。现在日本医学界进入了自学复活汉方的时代,其中也有像我这样到中国留学,直接学习中医学的人。真正意义上的日本传统医学的复兴与发展现在才刚刚开始。


日本汉方的课题


令人遗憾的是,现在日本的汉方界中能够理解“辨证论治”,为患者诊治的医生还为数不多。即便能够开中药医方,但不能够洞察患者的真正病情从根本上消除病患的话,也只是和西洋医学类似而已。但是造成这样状况也是无可奈何的事情,因为目前在日本能真正学习到东洋医学的学校还太少。




【白术/白朮】


《神农本草经》中以“术”之名收录在上品草药中。文曰:“味苦温。主风寒湿痹死肌,痉疸,止汗,除热,消食,作煎饵。久服轻身延年,不饥。


在此,我们应该再回归到东洋医学的原点,更加深刻的去理解先人所积累下来的医学智慧,再次探讨人与自然的关系。同时重新探索未来医学发展的道路。


まず、東洋医学で言う「東洋」とはアジア全般を指し、ヨーロッパとの区別として使われる言葉である。故に「東洋医学」とは、アジア全般の伝統医学を指している。そのアジア各地の伝統医学に多大なる影響を与えたのが中国であり、「中医学」である。中医学はもともと「中国伝統医学」と呼ばれていた。つまり、ヨーロッパが育んだ西洋医学との対比で生まれた言葉である。大航海時代に西洋文化は東洋に大きなうねりとして本格的に入ってきたが、西洋では東洋にそれほど高度な文化があるとは考えられていなかった。それ故、アジアと呼ばれる東洋をひとまとめに考えていた。しかし、西洋から見たアジアのその先に中国という別格の文化を持つ国が存在していた。そこで生まれた文化は周りの国に大きな影響を与え、国そのもの統治のあり方にまで影響した。国を統治するにあたり、当然のように医療制度や医療そのものも浸透していった。


では、「漢方医学」とは何か。日本では日本の伝統医学のことを漢方医学という。厳密には薬物を処方する伝統医療を「漢方医学」、鍼や灸を用いる治療を「鍼灸医学」という。実はこの言葉の歴史は非常に短く、江戸時代末期から明治時代において使われ始めた。この言葉は、江戸末期から本格的に入ってきた西洋医学、当時はオランダ医学が入ってきたので「蘭方」との対比で「漢方」という言葉が当てられた。ただ、どこでどのように「漢方」になったのかは、さまざまな見解がありその真相はわかっていない。ここでいう「漢」は中国を、それも漢の時代を指している。これは日本の東洋医学が漢の時代に書かれた書物『傷寒論』や『黄帝内経』などを基礎にして作り上げられたことに由来し、同時に敬意も込めている。特に『傷寒論』は日本では経典中の経典として尊ばれている。


中医学の伝播


日本と中国の交流の歴史は、文献に残っているだけでも後漢末期の三国時代までさかのぼることができ、実に1800年前から始まっている。その時期の中国が周辺の国への影響力を誇ったのに対し、日本はまだまだ国としての機能もおぼつかない状態だったので、本格的な交流はそれから400年以上のちの話になる。その時代でも日本は中国から一方的に学ぶ立場であり、主に国家制度を学びに行った。当然、そこには科学や技術も含まれていた。これが世にいう遣隋使・遣唐使であり、隋や唐の時代の中国は日本の建国に大きな影響を与えた。そして、唐代を模した日本の古い建築物の多くが、今に至るまで損なわれることなく保存されている。現在、日本に来た中国人が「唐の時代を見たければ日本に行けばいい」と語るのはここに起因する。日本は各方面に唐代の文化の影響を受けながら、自分たちに合うように文化をアレンジし、独自の文化に昇華させることに成功した。こうした文化融合の経験のおかげで、西洋文化が入ってきた江戸時代後期には、いち早く西洋文化を日本文化として取り入れ、飛躍的な成長によって近代化を成し遂げた。


話を医学に戻すが、遣唐使などの交流が進むにつれて、医学は国家にとってなくてはならない技術として積極的に輸入された。当時は医学レベルの差が非常に大きかったため、さまざまな薬物とともに中国の医学書が大量に入ってきた。そして、そこから医療制度を整備し、多くの医師を育成し、日本の医学として根付かせていくこととなる。


日本独自の医学「漢方医学」とは?


このようにして輸入された中医学だが、当時の日本の状況を鑑みると、医療における薬の調達や栽培、医師の育成、制度の制定と課題は山積みだった。しかしながら結果が伴わなければ国からの支援は受けられない。そのため日本の医学界には即効性を求める傾向が生まれてしまった。これは現在の西洋医学に通じる対処療法である。即ち「頭が痛ければ頭を治療し、胃が痛ければ胃を治療する」といった手法である。患者のその場の苦しみが取り除けるので、治療としては素晴らしい成果となる。しかし、中医学はなぜ頭痛になったのかを探求する学問である。「弁証論治」と呼ばれる治療法で、患者の状況に合わせた処方をする方法論がその神髄にある。ここでいう状況とは、患者の現在の症状はもとより、体質や心理状態、生活環境などを指す。


つまり、頭痛になるにはさまざまな原因が存在している。風邪を引いたのかもしれないし、高血圧なのかもしれないし、頭部になにか異物ができているのかもしれない。これらの治療に東洋医学ではどれも同じ漢方やツボを使うわけではない。だが、西洋医学では同じ頭痛薬で緩和できてしまう。果たして、頭痛薬で止めた痛みは本当にもう起きないのか。いや体質を変えて根本原因を絶たない限り再発する。それを治すのが中医学である。


より小さく、より細かく分析していく西洋医学と違って、東洋医学は「自然と一体になり生きていく」という価値観から始まっている。そのため、1人の医者を育成するには、東洋医学が求める科学知識を身につけさせなければならず、それらの知識が本人の常識になるまでには長い時間を要する。また、医学は絶えず発展を続ける。それ故に中国からひっきりなしに入ってくる新しい知識に対し、研究し吸収する時間が取れず、日本で医学書を編さんするにあたっては、単純に中国の文献を引用するしかなかった。ただ、文化の保存の面からみると、当時の中国の伝統医学の文献が日本で数多く保存され、中国で散逸した医学書をのちに復元するのに大いに役立った。


日本は江戸時代を迎え、大きな戦争がなくなり、社会は平和で安定した。しかも鎖国により医学にも大きな変化がなくなった。日本の医学界には自分たちを見直す時間が到来し、「対処療法」的な医学から中医学本来の「弁証論治」に移行する試みも行われた。しかし、いつの時代にもある派閥争いが激しく、政府御用達の主流の医学になるのは難しかった。そうこうしているうちに、明治時代に入り、社会は欧米化し西洋医学が日本の医学の本流になっていった。そのため漢方医学は継承者がほとんどいなくなった。昭和末期には「漢方医学は病を治し人を救う医学である」ことを常識としていた時代の人たちは皆他界してしまい、本当の日本伝統医学の伝承は断たれた。鍼灸界などでかろうじて継承されてはいるものの、完全に切れたといっても過言ではない。そして今、日本の医学界は独学で漢方を復活させる時代となっている。私のように中国に留学して直接中医学を学ぶ者も出てきた。本当の意味での日本の伝統医学の復興や発展はこれからだといえる。

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